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映画批評.藤村隆史

「ヒア アフター」(2010)クリント・イーストウッド~メディアと預言者について 2011.3.28

■霊媒師
マット・デイモン、どうして彼は霊媒師なのだろう。そしてまた素朴な疑問として、霊媒師である彼の口を通して語られた死者の言葉が何故、ああまでして作中の人物を、そしてまた、それを見聞きしている我々をしてエモーショナルな気持ちにさせるのか。最初に彼の部屋にやってきた労働者の男のみならず、イタリア料理教室にわざわざマクガフィンとしての遅刻をして登場し、マット・デイモンとたった三度の切り返しによって「見つめ合った」だけで「結ばれて」しまったブライス・ダラス・ハワード(ロン・ハワードの娘)にしても、霊媒が終わった後には白い壁に包まれたアパートの狭い階段に座って泣き崩れているし、ロンドンでマット・デイモンで出会った少年にしても、霊媒によってその頬には幾線もの涙が伝っていた。そしてそれを見ている私もまた、底知れぬエモーションによってスクリーンが霞んでしまうような体験に包まれてしまったのである。

■なぜ
私がここで興味を抱くのは、どうしてわさわざ霊媒師なる媒介=メディアを介在させる必要があるのかということである。例えばブライス・ダラス・ハワードに対してなら、父親の幽霊が出てきて「すまなかった、、」と直接謝ってしまえば少なくとも物語としては同じことであるし、まるでDW・グリフィス●「イントレランス」(1916)の山の娘、コンスタンス・タルマッジや●「散り往く花」(1919)のリリアン・ギッシュのように大きく目を見開いて死んでいった双子の少年の兄にしても、夢枕などに出てきて「お前は独り立ちするんだ」とでも弟を諭せば少なくとも物語としての結末に変化はなかったはずである。そこに何故、マット・デイモンという霊媒師が介在しなければならなかったのか。おそらくそうしたところに、イーストウッドという作家が映画というメディアに対して抱いている感覚を見出すことができるのではないか。

■バイバイ、ブラックバード
ここのところどうしてか、●「パブリック・エネミーズ」(2009)のラストシーンが頭から離れない。刑事のチャーリー・ウィンテッドが、ジョニー・デップの『バイバイ、ブラックバード』という遺言を取調室でマリオン・コティヤールに伝えたあのシーンである。この点についてもまた、マリオン・コティヤールが現場に駆けつけて、耳をジョニー・デップの口に近づけてその遺言を聞いても物語的には何の問題も生じないはずであるし、事実マルセル・カルネ●「霧の波止場」(1938)でジャン・ギャバンの遺言を直接聞いたミシェル・モルガンのように、映画史において「直接遺言を聞く」というシーンは存在している。それにも拘わらず、どうしてマイケル・マンはわざわざチャーリー・ウィンテッドなどといいう、少なくとも映画の中においてはまったく脇に追いやられた役者を媒介=メディアとして二人のあいだに挟んだのか。

■間接正犯
この点については2010年度封切館の「パブリック・エネミーズ」のところで検討したので簡単に書いてみると、刑法には、例えば大人が年端も行かない子供を利用して万引きをさせるように、他人を「道具」として利用する間接正犯という犯罪類型がある。この場合、子供には責任能力がないので罪には問われないが、子供の行為自体の違法性は存在するので、「違法は従属する」という法則から正犯はあくまでも子供であり、大人は共犯として教唆犯ということになってしまう。だがそれでは刑が軽いし処罰感情にも反する、そこで何とかして大人を正犯にすべきだ、ということから考えられたのが間接正犯という類型であり、そこで大人は、子供をまるで「道具」のように使っているのだから、実行行為は子供の行為ではなく大人の誘致行為そのものにあり、したがって大人が正犯である、とするものである。自由意志を欠いた被利用者の行為は「道具」として評価されるので、大人の「あれを取って来い」という誘致行為そのものが、「万引きをする」という子供の行為を支配して実行行為化してしまうのである。ここで間接正犯が成立する要件としての、被利用者の「道具性」というものが、刑法のみならず、映画的にも意味を持ってくる。「パブリック・エネミーズ」におけるエモーションは、刑事のチャーリー・ウィンテッドが、「バイバイ・ブラックバード」という言葉の意味を「知らないこと」に由来している。「知らないこと」によってチャーリー・ウィンテッドは「道具」としての性質を帯びることになり、そうであるからこそ「バイバイ・ブラックバード」というチャーリー・ウィンテッドの言葉はジョニー・デップによって支配され、それがマリオン・コティヤールに直撃したのである。「霧の波止場」のように直接にではなく、敢えて人と人との間にワンクッション、メディアを介在させる。あらゆる出来事が複合化し、時間空間が拡大してゆくポストモダンの時代には、メッセージは人から人へと直接伝えられることはない。メディアによって伝えられるのだ。ここで刑事のチャーリー・ウィンテッドはメディアとして存在しているのである。そして「ヒア アフター」のマット・デイモンもまた、まるで間接正犯における「道具」として利用されてしまった健気な子供のように、死者のメッセージを遺族たちに伝えている。彼もまたチャーリー・ウィンテッドと同じように、死者と遺族とを媒介する霊媒師=メディアとして存在しているのだ。

■メディアとしての資質
「ヒア アフター」にはマット・デイモン以外にも、数多くの霊媒師たちが描かれている。高い教壇の上から信者たちを見下ろしたり、あるいは精神科医よろしく開業したりしている彼らは、「道具」と化して霊媒を行うマット・デイモンとは対照的に、自らの意志によって死者の言葉を創出する「いかさま師」であり、決して間接正犯における子供のように、因果の流れとしての死者たちの「道具」と化してはいない。ここで重要なのは、BACとに挟まれた時、BAのメッセージをそのままCへと伝えるという「真実性」ではない。ACとに挟まれた時、AのメッセージをそのままCへと伝えることのできる「人物」である。そうした人物こそAのメッセージをCへと直撃させ、映画的なエモーションを引き寄せることができる。確かにマーシャル・マクルーハンが言ったように「メディアとはメッセージ」であり、メディアとは決してAのメッセージを透明性においてそのままBへと伝達する媒体ではない。それぞれのメディア特有の在り方によって伝達するのである。「ヒア アフター」におけるメディアとは、電話でもインターネットでもテレビでもない。人間である。そのためにイーストウッドは、マット・デイモンというメディアの性質をとことん描いている。かつて霊媒師として活躍したマット・デイモンは、今や港湾労働者として使われる身にあり、その職さえもリストラで失い、会社を訴えるために弁護士を雇う費用すらない無力な青年である。孤独を紛らわすために何の変哲もないイタリアン料理の教室に通い始めた彼のアパートにはエレベーターなどなく、狭くて白い壁に挟まれた階段を歩いて階下まで降り続ける人々をキャメラは延々と追いかけている。アパートの美術、職業、行動、あらゆる細部によって、この人物が「普通の人」であることが描かれている。ここでイーストウッドは、マット・デイモンが霊媒師であり、霊媒をするという物語ではなく、どうして彼が霊媒師であることができるのかを映画的に描いているのだ。運命に流され、翻弄されていること=道具性によって惹起される無垢な運動の力が、彼を霊媒師たらしめる。だからこそマット・デイモンは、結果として死者のメッセージをそのまま伝えることができる。平凡な者こそが実は「選ばれし者」であり、メディアとして相応しい、それは「預言者」を呼び寄せる。

■預言者
メッセンジャーとしての「道具性」とは、「預言者」としての資質でもある。そもそも神は絶対であり、すべては神の思し召しによって決まるのだから、人間に自由意志はなく、人間である預言者もまた神の道具に過ぎない(小室直樹「日本人のためのイスラム原論」227頁参照)。自由意志を持たない彼らは、モーセやエレミヤのようにして、徹底して神によって翻弄されてゆく運命にあるのである。「預言者」としての資質とは、自由意志の不在と「道具性」である。「預言者」が神のメッセージをそのまま伝えてゆくことができるのは、彼らに自由意志がなく、神の「道具」と化しているからである。こうした構造は間接正犯と非常によく似ている。神も犯罪の利用者も絶対者として媒介を支配しており、だからこそ被利用者は「道具」となることでメッセージがダイレクトに届くことになる。これは映画の中において運動がいかにして起動してゆくかの運動論である。イーストウッドはあたかも成瀬巳喜男の映画の人物が「内的」であるが故に「不可抗力」の運動を惹き起こすことができたのと同じように、運命の力にひたすら流されてゆく「預言者」と、そうであるが故に惹き起こされるメディアとしての運動を画面に捉え続けている。ここでは人物論と運動論とがクロスしている。運動を持続させるためには、人物は自由意志を持っていてはならない。自由意志によってみずからの運命を転換させることのできてしまう者は、メッセージをそのまま伝えるのではなく、まるで「いかさま霊媒師」たちのようにみずからの意思を混入させ、まったく違ったメッセージを伝えてしまうからである。そうであるからこそ「いかさま霊媒師」は選ばれることはない。選ばれし者とは「預言者」である。

■運命
その「預言者」を映画の中で運動として描くためにはどうしたらよいか。それは運命を描くことである。そもそも多くのイーストウッドの映画のひとつの芯を為しているのは運命である。運命に抗えず、流されてゆく人々の運動を画面の中に惹き起こしてゆくのが彼の映画のひとつの大きなパターンであり、その主人公の多くは、仮にカウボーイであれ宇宙飛行士であれ、ボクシングのトレーナーであれやくざであれ歌手であれ刑事であれ、与えられた運命に忠実に生き続けている。『どうしてお前はカウボーイなんた?』と聞かれれば、『俺は生まれつきカウボーイだからだ』、そんな答えこそイーストウッドの映画の人物像に相応しい。彼らは決して運命から「自由意志」によって逃れ出ようとはしない。そうした点においてイーストウッドとは、ヒッチコックと同じように、或いは成瀬巳喜男と同じように、大きく言えば「巻き込まれ型」の映画を撮る監督である。運命に流される、だからこそ運動が起動していく。では運命は映画的にどうやって描かれているのか。マット・デイモンの運動は、霊媒であれ、ロンドンに行くことであれ、みずからの意志によって起動していない。そもそも霊媒師になったのはみずからの身体の疾患が理由であってみずからの意志によるものではなく、その霊媒にしても、最初の労働者の場合は兄の紹介で仕方なくやっているし、ブライス・ダラス・ハワードに対しては幾度も拒絶した後、遂に彼女の熱意に押されて始めており、少年への霊媒にしても、ホテルの外で夜まで立って待っている少年の熱意に「負けて」やっていて、すべてにおいて「意に反して」やっていることが演出の上で徹底して強調されている。間違っても彼は「自由意志」によって霊媒をしてはいない、それが運命の映画的な描き方のひとつである。

■切り返し
さらにまた「運命」は、構図=逆構図の切り返しによって映画的に露呈する。マット・デイモンとブライス・ダラス・ハワードとが初めて料理教室で出会った瞬間、キャメラは二人の間を構図=逆構図の切り返しによって3度切り返され、終わっている。二人の間には何らの言葉も存在していない。ただ3度、キャメラが切り返されただけに過ぎない。だが「言葉の不在」と「3度の切り返し」という「過剰」によって露呈した画面の振動は、紛れもなく二人の間で何かが惹き起こされたことを語っている。ロンドンのブックフェアでのマット・デイモンとセシル・ドゥ・フランスの出会いのシーンについてもまったく同様に、二人は幾度かの構図=逆構図の切り返しによってひたすら見つめ合っており、ラストシーンの路上においてもまた二人は、構図=逆構図の切り返しのよってひたすら見つめ合っている。運命に翻弄されきた者たちが、「言葉の不在」と「切り返し」という映画的過剰によって、運命の出会いという「過剰」を演じているのである。それは「パブリック・エネミーズ」(2009)におけるジョニー・デップとマリオン・コティヤールとの構図=逆構図の切り返しによる見つめ合いが二人の最後の瞬間を予告し、●「素晴らしき哉、人生!」(1946)において、ジェームズ・スチュワートがダンスをしているドナ・リードと構図=逆構図の切り返しによって見つめ合っただけで二人は恋に落ち、そして成瀬巳喜男の「秋立ちぬ」(1960)では、構図=逆構図の切り返しによって見つめ合った子供たちに別れを予感させた、まさにその映画史の反覆に他ならない。ある一定のリズムの中における「言葉の不在」と切り返しの「過剰」とが画面を揺らし、二人の出会いを運命として刻み付けるのである。それにしてもイーストウッドは、成瀬巳喜男やマイケル・マンと、意外な細部によって絡み合っている。

■知らないこと
最後、子供の電話に促されてセシル・ドゥ・フランスに会いに行く途中でマット・デイモンは「俺もバカだな、、」と、子供の電話に乗せられて女に会いに行く自分を笑っている。映画はここでもまたマット・デイモンが自分の意志でセシル・ドゥ・フランスに会いに行くのではなく、子供の意見に「流されていること」を強調している。彼は自分がセシル・ドゥ・フランスに恋していることを「知らない」のだ。マット・デイモンは自分がセシル・ドゥ・フランスに恋していることを「知らない」。「知らないこと」とは、「パブリック・エネミーズ」(2009)のチャーリー・ウィンテッドが『バイバイ・ブラックバード』という言葉の意味を「知らなかった」ように、メディアとしてのひとつの資質であり、それは同時に「預言者」の資質でもある。「預言者」の資質とは、「自由意志を持たないこと」「孤独であること」「無力であること」「知らないこと」といった、極めて消極的な要素であり、それはある種の純粋さを露呈させている。そうした純粋さこそが、メディアとしての運命を惹き起こすのである。

■セシル・ドゥ・フランスと少年
ここまでは主にマット・デイモンについて考察してきたが、だがこの作品で運命に翻弄されているのはもちろんマット・デイモンだけではない。双子の弟は、兄の交通事故という運命に翻弄されているし、その交通事故にしても、そのあいだに「不良たちの嫌がらせ」という、交通事故とは何の関係もない方向の運動を挟み入れることによって、それが運命であったことを引き立たせている。セシル・ドゥ・フランスに至っては、まさに津波によって「流されて」しまっている。そのセシル・ドゥ・フランスが、無力にも流され続ける姿を俯瞰から、そして水中カメラから、延々と撮り続けたイーストウッドがここで現したのは、津波という物語ではなく、「流されること」という、不可抗力の運動であったことは言うまでもない。こうして映画はマット・デイモンのみならず、彼がロンドンで巡り合った二人についても運命の運動を描き続けている。運命に流されることの「できる」資質を持っていたのはマット・デイモンだけではないのだ。

■みんな預言者、、、
この映画はメディアとしての資質を問いかけてくる。人がメディアとなって人にメッセージを伝えるとき、どういった人物がメディアに相応しいのか。ここでもう一度、マット・デイモン以外の二人を見てみよう。キャスターのセシル・ドゥ・フランスはまさにメディアの一員であり、最初、ミッテランの評伝を書く予定であった彼女は、津波に遭ったことによって臨死体験を伝える衝動を抑えきれず、それを出版というメディアによって伝えようとしている。それは「臨死体験」という、極めて非科学的なメッセージであり、人々が素朴に信じることのできない「預言」でもある。それをセシル・ドゥ・フランスは、必死になって「伝えよう」としているのだ。双子の弟についてもまた、イーストウッドは周到な演出をほどこしている。ロンドンでマット・デイモンと別れた後、マット・デイモンに電話をし、セシル・ドゥ・フランスに会いに行くように伝えたことである。ここでもう一度、セシル・ドゥ・フランスに会いに行く中途でマット・デイモンが「俺もバカだな、、」と呟いたことを考えてみると、このセリフはこの時点において彼はまだセシル・ドゥ・フランスに恋していることを自分自身で知らないことを示唆している。マット・デイモンがセシル・ドゥ・フランスと恋に落ちるのは(それを知るのは)、その後、なのだ。するとあの少年のメッセージは、紛れもなく「預言」ということになる。イーストウッドは実に繊細な演出によって、少年にもまた「預言者」としての資質を授けていたのだ。

■メディアはメッセージである
この映画は、メディアとしての「預言者」を描いている。人がメディアとなって、何かを人に伝えること、それには資質がある。それは決して知識や学歴といった「知っていること」ではない。運命に翻弄され、まるで道具のように突き動かされながらも、忠実であり続ける人々、孤独な彼らは何も知らず、やたらと素直で、しかしみずからが傷ついたことで他人の痛みを感じることはできる、そんな彼らこそ、媒体となってメッセージを伝えるに相応しい。そんなメッセージこそが、人を感動させ、エモーションを惹き起こすことができる。だからこそ、人と人とのあいだには敢えて「預言者」を挿入しなければならない。おそらくイーストウッドは、そんな感覚でこの映画を撮っている。マット・デイモンとセシル・ドゥ・フランスの「何も知らない」二人がラストシーンの路上で構図=逆構図の切り返しによってただひたすら見つめ合ったとき、まるで目の前にいるのが実はあの人であることを「知らなかった」ヴァージニア・チェリルが、『You、?』と呟いたチャップリンの●「街の灯」(1931) のように、鳴り響く運命の映画史が二人の傷あとを癒しながら、キャメラはロングショットに引かれてゆっくりと上昇し、伝言は未来へと託されてゆく。

映画研究塾.藤村隆史2011.3.28

参考文献
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹